対談 保育は人をつくり、
未来を紡ぐ
みぎわの保育の根幹と
若手へのメッセージ
「みぎわ保育園」は1978年、伏見桃山の地で開園しました。ちょうどそのころ、桃山南団地が開発され、子育て世帯が多く入居してきていたのです。こうして、まだ原野だった土地に園舎が建てられ、みぎわの歴史が始まりました。
時代は変化しても、変わらない
みぎわの保育の根幹
塩谷
藤村先生はみぎわ保育園の開園当初から保母(現在は保育士)として勤務されてきました。私も80年代前半の乳児のころ、みぎわ保育園で藤村先生に保育をしていただいたことがあって、人生のスタートをみぎわから始めています。
当時は私の祖母が園長で、90年代半ばから父がそのあとを継ぎました。そして2018年に私が父より事業を承継し、みぎわの保育をいまの時代の保育ニーズに合った、より質の高いものにしようと努力をしているところです。この対談では、藤村先生をはじめ、みぎわとゆかりの深い職員の皆さんと、「時代は変化しても、変わらないみぎわの保育の根幹」があること、そしてそれはどのようなものなのかを掘り下げていければと思っています。まずは、みぎわの創成期がどのようなものだったのか、藤村先生からお話しいただけますでしょうか。
藤村
みぎわ保育園は、初代理事長の小野一郎牧師と、塩谷いく子・初代園長の方針のもと、キリスト教を軸とした保育を行っていました。職員はキリスト教精神を学ぶため教会に通ったり、聖書研究を職員間で行ったりしており、日々の保育のなかでも礼拝や祈りを通じて、相手を思いやる気持ち、すべてのことに感謝する気持ちを園児たちに伝え、それがその子どもたちのこれからの長い人生に活かされることを願って保育を行っていました。月に1回は小野牧師が、職員に対して聖書のエピソードを題材に講話をしていたものです。
いまのみぎわは、当時ほどキリスト教保育という側面を強調してはいませんが、それでも当時のように、キリスト教精神のあらわれである「隣人愛」と「感謝」を子どもたちに伝えたいという思いは変わっていません。
塩谷
その思いは、いまのみぎわの幼児組でとくに受け継がれていますね。形式上の礼拝になることなく、毎日の園生活のなかで相手への思いやりや感謝の気持ちを子どもたちが自然と抱き、そしてその思いを表現できるようになるように工夫しています。
祈りといっても難しく捉える必要はありません。たとえば、クラスの誰かが病気になってお休みしたとき。その子はいま発熱などで辛い思いをしているであろうこと、早く元気になってまたみんなといっしょに遊べるようにと、保育士と子どもたちはその回復を祈ります。お友だちの誕生日には、その子が何年前かにこの世に生を受け、幸せになってほしいという保護者さんの願いを注がれて、いままで元気に育ってきたことにみんなで思いを馳せます。そして、その子とこれからもたのしく遊びながら過ごしていくことができるようにと、クラスのみんなでお祈りします。
祈りは特別な儀式ではなく、日常の保育に織り込まれていて、そうした環境で生活していくなか、自然と思いやりに満ちた子どもに育っていくものと信じています。
関谷
私はみぎわ保育園の開園時に2歳児で入園し、年長クラス(1981年度)では藤村先生が担任でした。当時の卒園アルバムに、自分の将来の夢として「ほいくえんのせんせいになりたい」と書いているとおり、これまで私の夢はいちどもブレたことはありません。京都文教短期大学を卒業後、新卒でみぎわ保育園に入ったのも、園児のとき藤村先生に強い憧れを抱いたからです。
私は、藤村先生から受けた保育を、自分も園児たちにしたいと思って保育士になりました。園児のころを思い返すと、藤村先生に「一人の人間」として向き合ってもらった記憶がよみがえってきます。自分にいつも向き合ってもらえた、自分が興味をもったことや集中してやりたいことがあるとき、その思いを受け止めてもらえて、心から満足するまで遊んでもらえた。今から振り返ると、私たち園児が遊びに夢中になれるように、保育計画や環境設定が考え抜かれ、かつ現場での臨機応変な対応があったのだとわかります。そしてそのおかげで、園児だった私は毎日「今日はこれでめっちゃ遊んだ!あー、楽しかった!」という満足感をもって家に帰っていました。
だからこそ、子どもたちが気のすむまで「遊びこむ」こと、そのための創意工夫を絶えず凝らすことが大切だと信じています。「この遊びはここまでで終わり、次はこれをしましょう」と、保育士が子どもたちの時間を大人の都合で区切ることはみぎわではしません。子どもたちは何を考え、何をしたいのか、どう感じているのか。そういった思いを受け止めて、遊びを発展させるようなかかわりを常に心がける。そして保育士も子どもたちといっしょに、めいっぱい遊びこむ。今も昔も、この姿勢がみぎわの保育の根っこにあります。こうした保育園時代の経験が、子どもが自分で考える力、自分が何をしたいのかを選んで決める力を育むのです。
藤村
私は50年近く保育現場に身を置き、多くの子どもたちと向き合ってきました。そのなかでずっと大切にしてきたのは、「あなたはあなたでいい」と、ありのままの子どもをまずは大人が受け入れることです。いたずら好きなあなた、走るのが早いあなた、すこし怖がりで新しいことに挑戦するのに慎重なあなた...。みんな、そのままのあなたでいい。いろんな個性をもつ子どもがいて、ひとりひとりがその子だけにしかない輝きをもっています。
保育の仕事を始めたころは、受け持ったクラスのみんなを愛したい、愛さなくてはいけない、と気負っていたところがあったかもしれません。それでも、保育士と園児であってもやはり人と人ですから、保育現場のなかで気の合う子どもと、なかなか関係を築けない子どもとがいます。そんなときは、うまく関係を築けない子どもこそ、その「ありのまま」をまずは大人側が受け入れることです。
クラス全体をうまくまとめるという、集団に対するまなざしが「横糸」だとしましょう。これに加えて、その子のありのままを受け入れるという、個人を大切にするまなざしを持つこと。すると、その子だけがもつ優しさ、強さ、発想の豊かさ、もちろんときには弱さなどもおのずと見えてきて、子ども一人ひとりへのまなざしが「縦糸」として紡がれていきます。そうなると、子どもの側も自分を受け止めてもらえた安心感から、保育士と子どもとの関係は少しずつ築かれていくものです。